un journal

「未知ある  陰ひとつない道歩く曇り空 君のさびしさはどんなさびしさ  く」

TOEICと,自己啓発書と.

 今から半年くらい前,TOEIC の勉強をしなきゃいけなかったのでしてたわけだけど,そのころの教材が今も本棚の中に不気味にたたずんでいる.友人の中には今から TOEIC を受ける人もいるので譲ろうと思ったりもしたけど,べつにいらないと先日,拒否された.それで久々に TOEIC の教材を読み返してて思うのは,TOEIC ってバロック的だ,ということ.というのも,TOEIC の問題はせいぜい5000語~6000語程度の限られた語彙で正解/不正解に全く恣意性もなく様式美的に構築されているからで,そこにはたしかに,5000語で閉じられたシステマティックな小宇宙があった.もちろん TOEIC の文章自体はそんなに美しくないけれど,私はそんな世界は嫌いじゃない.それは私は現状維持バイアスが人一倍つよくて,エドワード・レルフのことばを借りるなら実存的外側性を感じやすいからだろうと思うけれど,いずれにせよ,コンパクトで,閉じていて,ルールがほぼ決まってるような世界には安心感を覚える.
 5000語さえ覚えておけばなんとかなるような,記憶力や常識のないひとにやさしい世界.私はそんな世界を本棚の中にたくさん所有するのが好きだ.例えば,マラルメの詩集は私にとってそんな世界のひとつで,つまり,ドマン版詩集の語彙数は2000語ていどだから,文化・社会的な文脈を無視すれば 2000語の語義さえ把握してればマラルメの宇宙を自由に旅行できるというわけ.
 ところで,TOEIC を話題にあげたなら,もうひとつ話題にあげなきゃいけないような気がするものがある:自己啓発書.というのも TOEIC は今や大学生ならほぼみんな受けてるわけで,それに匹敵するくらいの影響力を感じさせる書籍といえば,まず自己啓発書だと言えるだろうし,そもそも TOEIC 自体に自己啓発のにおいがするから.とはいえ,偏見でものを言うと,自己啓発書には絶望的に品がない.それは TOEIC はあくまで5000語の規則正しい戯れだったのに対して,自己啓発書の中にあるのは,コンセプトだけなのに,にもかかわらず,そのコンセプトが紋切り型で貧弱だからだと思う.つまり,自己啓発書がそのうちに秘めているのはいくつかの概念だけなのにもかかわらず,哲学すること=概念の創造を行っていないから.
 ともあれ,手元には自己啓発書はないけれど,TOEIC本は余ってるわけだ.というわけで,これをどう処理すればいいかしばらく迷っていたのだけど,けっきょく図書館に寄附することにした.図書館ではTOEIC本は人気の書籍でいつも貸出中なので,何冊か増えると助かるひとも出てくるだろう.それはけっきょく図書館を通じて名前も知らない誰かに対して本を贈る行為で,友人に好きな本をプレゼントするのとはまた違ったニュアンスを帯びていた.しかも幸いなことに(あるいは不幸なことに)TOEIC本という没個性的な手紙が宛先に届かないことはおそらくない.
 
 誰でもないひとにむけて贈る本どんな私の痕跡もなく