un journal

「未知ある  陰ひとつない道歩く曇り空 君のさびしさはどんなさびしさ  く」

まぶさびー!

 ここ数日で自分の感性がちょっと書きかわっちゃって危うくはじめたばかりのブログをやめてしまうところだった.いやたいしたことじゃないのだけど,まあ要するに篠原資明せんせーの『まぶさび記』を読んだわけです.篠原せんせーの著作を読んだのはこれがはじめてじゃなくで,数年前に『現代芸術の交通論』とか『百人一滝』とかは読んでて面白いなーと思ってたのだけど,その時はそれ以上奥には進まなかった.それで先日,古本屋で偶然『まぶさび記』を見かけてパラパラ読んでると,「ぼくにとって定家は,どこかしらマラルメに通じるものを感じさせる」とかいう奔放な(?)感性に満ちた文があって,これは読まなきゃと.
 そんなわけで図書館で同書をかりて(古本には書き込みがあったしちょっと高かった)読んでると,数ページ進んだところで「まぶさび」とかいう言葉がでてくるじゃないですか.

手のひらにちょっとしたくぼみを作り,そこに光の滝がさらさらとおりてくるように感じるのである.そのうちに光の滝が手のひらからあふれ出し,今度は自分が大きな光の滝のただなかに浮かんでいるように感じられてきた.ふたたび,それが手のひらに収まるようにする.これを繰り返すことで,心身がリフレッシュして,仕事もはかどるようになった.そして,いつの頃からか,その滝の感得にあわせて,「まぶしさの,さびしさに,ふりそそぐ」と,唱え,あるいは念じるようになったのである.のちに「まぶさび行」と呼ぶようになったのは,実質的に,この段階で始まったといってよい.この光の滝を,「まぶさびの滝」と呼ぶようになったのは,「まぶしさ」と「さびしさ」を足し合わせてのことだったが,「まぶさび」という言葉自体は,空海の死体の夢以前にふとしたきっかけで思いついたものだった.

ある日,ぼんやりと庭を眺めていたときのこと.日本文化には「ひえさび」とか「きれいさび」など,理想とする美的境地を名指す言葉があるが,自分の場合,それは何だろうかと考え始め,ふと「まぶさび」という言葉が浮かんだのである.

 これを読んで,まぶさび行のあやしげな雰囲気と,まぶしさとさびしさを「まぶさび」というかわいげのある四文字に略す感性にすっかり魅了されてしまって,ああ,わたしの好きな文学(わたしにとって文学はさびしい)に欠けてるのはまぶしさだったのか,などと思ったりした.
 それでも『まぶさび記』を読んだ直後にまぶさび行をやろうとはさすがに思わなかったのだけれど,疲れたときにふと「まぶしさの,さびしさに,ふりそそぐ」という言葉を頭の中で唱えてみるとちょっと元気になれた気がして本当にこれはすごいなって感じた.思い返してみると,疲れたときに自分の頭のなかに浮かぶのはいつも普遍的なさびしみを感じさせるような詩句モドキだったりするわけで,そこにまぶしさが加わるだけで世界が全く違って見えたというのは,わたしにとってちょっとした,けれども同時にとても重大な事件だった.数年前にまぶさびという言葉を目にしたときに,語の由来を調べなかったのは不覚だったと言うほかないけど,もしその時,語の由来を調べていたら,まぶさびを取るに足りないものとして切り捨てていたかもしれず,そう思うと,今,まぶさびという言葉を知ったのは運命だなって.そんなわけで,せーのっ,まぶさびー!